日本の伝統技術が継承されていく
「人」と「人」がつなぐ町
現代日本における人口50,196人、人口密度72.4人/k㎡の規模の自治体において、これほどの密度で地場特産品製造業者(職人)が活躍している町は珍しく、高島は日本の伝統的技術が継承された「職人の町」であるといえます。
高島においても、地勢がもたらす『人の流れ』が、町の成長の大きな原動力でした。高島に人が定住した頃までさかのぼって考えてみると、琵琶湖に注ぐ安曇川(あどがわ)河口部デルタ地帯に人の定住が見られたのは3世紀以前になります。これらの人は朝鮮半島付近を出発して日本海沿岸地域にたどり着いた大陸渡来の人々だったと言われています。高島周辺には他地域のような太平洋側と日本海側を隔絶するような険しい山脈が存在せず、おおむね1,000m以下の低山にとどまる事が、こういった人の移動を促したと考えられています。畿内に都が発達し始めた頃には琵琶湖を活用する水運利用も活発になり、高島は都と北陸を結ぶ陸上交通・湖上交通の要衝となりました。この特性はその後1500年にわたって変わる事なく、やがて20世紀中旬にモータリゼーションによる交通インフラ革命がおこるまで、高島の地域社会を支える大きな力であり続け、様々な産業を支えてきたのです。
高島は戦国時代以前よりすでに平安京と諸国を結ぶ物流の要衝として相当の発展がみられていましたが、社会が平和・安定化した江戸時代にはさらに栄える事となります。
これは、蝦夷地(北海道)や東北地方と平安京や大坂の物資輸送が盛んになるにつれ、敦賀や若狭といった日本海側の港からの陸路と、大津湊までの琵琶湖湖上水運の湊を持つ高島を経由する経路の優位性が高かった事によります。この時期、海津浦、今津浦、大溝湊が栄えました。
湖上交通は、蝦夷地から瀬戸内海を経て大坂の港を結ぶ北前船が登場した江戸中期、一度需要を減らしましたが、その後、日本近海に度々出没する外国船を避けるのに有効であった事もあり、江戸後期には再び活発に利用される様になりました。
明治期に入ると輸送の主役は鉄道に移行、その後自動車へと変わると、陸路では東海道側から大きな迂回を余儀なくされる高島の地理的優位性は失われ、高度成長の開発からも取り残される事となります。
この事は、高島が受け継いできた産業・文化を現代につなぐ大きな力となりました。
高島が位置する琵琶湖北西部は、夏は太平洋型気候、冬は日本海型気候となり、四季を通じて降水量が多い地域であり、琵琶湖の水の4割は高島地域から流れ込むといわれるほどです。伝統的に多湿で冷涼な高島では、その気候を生かした繊維産業や発酵食品産業が古くから栄ました。
前者では通気性に優れた薄物の「高島晒(ちぢみ)」、舟の帆に使われた「高島帆布」といった厚物が誕生しました。また、後者では酢、醤油、味噌などの調味料や酒づくりが発展しました。
その発酵食品の中には鮒ずしの様な保存食もあります。400万年前に誕生した琵琶湖は50種にのぼる固有種を育む大きな古代湖であり、古より漁業が活発です。湖ではビワマス、アユ、二ゴロブナ、ホンモロコ、セタシジミなどといった湖の幸が盛んに水揚げされ、郷土の味として親しまれてきました。
湖上交通は、蝦夷地から瀬戸内海を経て大坂の港を結ぶ北前船が登場した江戸中期、一度需要を減らしましたが、その後、日本近海に度々出没する様になっていた外国船を避けるのに有効であった事から、江戸後期には再び活発に利用される様になりました。
明治期に入ると輸送の主役は鉄道に移行、その後自動車へと変わると、陸路では東海道側から大きな迂回を余儀なくされる高島の地理的優位性は失われ、高度成長の開発からも取り残される事となります。
この事は、高島が受け継いできた産業・文化を現代につなぐ大きな力となりました。
このように水の恩恵を受けた高島は、水害に悩まされ続けた地域でもありました。江戸時代には洪水予防の工事として、自然堤防に竹を植えて補強する取り組みが盛んに行われます。その竹は日常生活の必需品であった扇子の骨の材料として利用される様になり、扇子の大産地、京都に隣接することもあり、高島では扇骨づくりも地場産業として大いに発展する事になるのです。
多くの市町で地場産業の担い手がいなくなり、都会や外国から次代の人材を迎えようとする動きが目立つ中で、高島では昔ながらの職人文化の継承の風景が現代でもよく見られます。それを家業とするところでは親から子へ、あるいは組合の様なかたちで仕事をしているところでは師匠から弟子へ、丁寧なモノづくりの技と心が受け継がれています。
観光地でもなければ大都市でもない田舎の町、高島。
これだけの数の職人たちが今も元気に活躍出来ている理由は、開発から取り残された歴史や、大消費地・京阪神との位置関係など、繊細なバランスの上に成り立っているのかも知れません。
私たちには、その正確な理由はわかりません。
だけど、昔からこの国にあった、心のこもった丁寧な技術が、この町にたくさんあるのは紛れもない事実です。
「素朴で、なんだかあったかい。」
『高島の恵まれた自然環境とそこで生み出される伝統技術をぜひ、多くの方に知ってもらいたい。』そんな思いから、この高島まるごと百貨店は生まれました。
高島の職人の手から、あなたの毎日の生活のどこかに届きますように。